2006年10月7日土曜日

火曜日の踊り子


朝ひともんちゃくしたのち、静岡へ。編集会議。
デザイナさんや印刷屋さんのところを通って
ほぼ完成版ができていた。
なんかひとつの‘もの’となって手元に届くというのは感動だった。
やっぱりどうしたって、私の中では紙が大きな力を持つ。
もうすぐ完成版ができるそうだ。たのしみ。

電車の中で『権現の踊り子』/町田康を読み終えた。
小説の短編集。ぜんぶおもしろいな。
町田康の小説って
活字を追ってるっていう意識なしに
すこんすこん、と入ってくる。
わらっちゃうんです。読みながら。
「工夫の減さん」も「ふくみ笑い」もさいこう。
ああ、好きだなあ。

・・・
「で、みんなその配合具合に独自の俺の味があるなんていってるわけで。でもそれってホントはとっても虚しくってなんていうのかな、自分の考えつくことは独自だっていう、自分は自分であることそれ自体が特殊で特別であるっていうガキみたいな考え方なんだよね。つまりはなにがいいたいかというと、そんなさあ配合程度のことに縋って自分が独自だというその心底が卑しいんだよね。つまりはそれはよくいっだろお、自分が才能あると信じてバンドとかやってる奴な。ああいうのと一緒なんだよ。つまり、専門の教育を受けていないそこらの兄ちゃんが売り物にできるのは、なんか曖昧な、例えばセンスとかそういうものなんだよ。でもそこがくせ者で技術やなんかだと一目瞭然なんだけど、そういうセンスなんて言うのは曖昧だから、自分でセンスあると思っちゃえば思えるんだよね。けどそれは客を騙すにはいたらないんだ。結局自分を騙してる、誤魔化してるだけさ。はは。空虚だね。蓋を開けてみればなにもない。剥いても剥いても皮ばかりの辣韮やろうってんだよ。そういう卑しい心底がカレーを自慢する奴の心に現われていて、そういう奴は結局、他より優れた自分という妄念から逃れられなくて結局、滅亡するんだけどね、その過程においてカレーを商ったりするなんてこともあるってことだよ。つけあわせは、やはりラッキョウ? 後、自分や自分の体験が特殊であると信じてそれだけを根拠に詩や小説書いたりね。これが一番、まあ困る部分だね。まあ僕らの方ではそんな田舎臭いことする奴はおらんけどね。そういう魂のカレーみたいなのはね」
・・・
(「権現の踊り子」より)

引っぱってきすぎかな。でも最近何か読んでいるときこういうのがとても気になる。
おもしろい台詞なんだけど、ちくちく刺されるんだよ。
私はどうなのかって。
自分にはなにもないなんて思っていたらやっていけないけど
自分になにかあると思い込みすぎて見失うものもある。
自分を信じることと自分を疑うこと、そのバランスのいいところが見つからない。


とまあそんなことを考えながら、そのまま電車の中で眠り込んでしまった。
駅に着いて車掌さんに起こされた。
とび起きてころげるように車外にでたところ
傘をわすれそうになってまた呼び止められた。
なにをやっているんだ・・・。

浜松に戻ってから谷島屋へ。
マンガを2冊買った。
新撰組マンガと社内恋愛マンガ。妄想はたのしい。

ゼミ室にちらっと行く。
帰りに学科のおもしろい友達と会う。
しばらく立ち話。
いま大学がおもしろい!






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