2005年11月9日水曜日

貪欲な日曜日


しあわせな眠りから覚めるお昼前。
最近買った棚の上にスペースをつくって
ずっとほこりをかぶりながら床に置いてあったオーディオをのっけた。
夢から覚めないままでGOINGを聴く。
『グラフィティー』のイントロであの場面あの空気を思い出す。
『センチメント・エキスプレス』で
「さみしいのは君のせいだ」と思う。ほんとに。
『ショート・バケイション』。
「朝の光に僕なら強く 君の事ばかり思い出すだろう
いつもそうさはにかみながら
夢で遭える気がして もうひと眠り」
そう。君のことばかり思い出してる。

夢から覚めないままで午後の部屋にひとり。

新聞バイト。
お、少ないかも…と思ったらじわじわ増えていった。
けっこう多くてまいったまいった。
でもね。淡い期待が裏切られても、まだ夢心地。
キーボード叩く指も弾む。


学校で作文。『高瀬舟』/森鴎外を読む。
みじかい話だから、何回か読みかえす。
なやむ。
こうやって、「何を書こうか」となやむ過程は何度も経験してきたはずなのに
ぜんぜん慣れない。
なやみ方、少しはうまくなってるのかな。それもよくわからない。
でも時計はまわる。
書きたいことは自然にわいてくるものではないので、ひたすら頭をかきまわす。
最近ぱっと書けないなあ。
「書く」という行為をたとえるのならば、
前は走ってた感じ。今は身をよじりながら転がる感じ。ゴールがどこかわからない。
まっすぐ走りたいのにな。
この夜も遠回り、回り道、迷い道。
考えにつまったら、小さな音でGOING流しながらイスをゆらゆらしたりなんかして。

(『高瀬舟』を読んで。)
喜助はすごいなあと感じた。
哀れだとは少しも思わなかった。
きっと彼の精神は『足るを知る』に至っている。
うらやましい。
私も(本当の意味で)それがわかれば、もっとしあわせになれるのに。

昔よく見ていた『小公女セーラ』っていうアニメのことをうっすら思い出した。
主人公のセーラっていう女の子は、ものすごい不幸なんだけど、
どんなつらい状況にあっても
「よかった探し」(正しい名前は覚えていない)というようなことをする。
小さなしあわせを探し出して、それをかみしめる。

でもさ、
まだ足りない足りないと欲の尽きることのない私と、
満ち足りている喜助やセーラと、
どっちがしあわせだろう。

答えはまだでていない。
いつかわかるのかなあ?


作文には、「手のひらの中のしあわせ」について書いた。
でも、やっぱり、私は「手のひらの外のしあわせ」もほしい。
なにも捨てられない。でもまだほしい。
私の手のひらは、いつかいっぱいになってしまうかもしれない。
そしたら手をもっと開けばいいじゃないか。
私はなにも捨てるつもりはない。
ぜんぶ手に入れたい。
いいよね?カミサマ。






0 件のコメント:

コメントを投稿