急に。浜松に行ってきた。
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大学へ。文章作法ゼミ(テーマ『風』の回)を見たくて。
ぜんぜん間に合ってなかったけど、でも行けてよかった。
わたしはゼミの中でも、このゼミがとくに好きだったのです。
課題書を読んで、1000字の作文を書いてくる。
提出した作文に先生からの「評」をつけてもらえる。
ゼミでその作文を音読する。
解説をつける。先生、ゼミ生で、なんやかや言い合う。
これが楽しいの。うれしいの。
書けなくてすごいつらかったような気もするけど
今となってはほとんど、楽しかった、というおぼえしかないなあ。
読んでもらえるということ。
そこに向かって、書く。書けなくても書く。
書くこと。
というのはぜんぶなのです。そのひとの、ぜんぶ。
題材を探して、自分の中身を見た。
丁寧に叱られることで、ひとの言葉も素直に受け入れられた。
くりかえしほめられることで、根っこにある自信が固められていった。
思っていることを言うことで言われることで
ひとつ深いところのコミュニケーションを知った。
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そして今回。久しぶりに参加した。
隅に座って、完全に見学者として。
後輩の子たちの作文を聴いた。
うまい。ほとばしるエネルギー。素直な文章。
ただただ聴き手として、おもしろかった。
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浜松に行ったもうひとつの目的には
後輩と話をすること、があった。
その後輩からは少し前から連絡をもらっていた。
彼が、わたしにOG訪問的なことをしたいという話だった。
当初は、彼が小田原まで来るということだったのだけれど
わたしが先に浜松へ行ってしまった。
学生さんに小田原まで来てもらうのは忍びないから、
とか言ってごまかしたけど
ほんとは、彼がこの貴重な時に小田原にまで足を運ぶ―
わたしにそれに値する話ができるのかどうか
自信がなかったのだと思う(へたれですまん)。
それで彼は「きみのほうが会いに行かなきゃだめじゃないか」と先生に怒られていた。
いや、そうじゃなくてそれはわたしが…。…なんか申し訳ないことしたな。
彼は情熱的で、まっすぐまじめ。
書くのが好きなのだろうなあ、と伝わってくる
かわいらしい文章。
彼の学外での活動の話なんかきいていると
このひとこのままきっとまっすぐよりよくなるひとだ、と思った。
彼からは直球でいろんな質問がとんできて、わたしたじたじ。
終わり頃、「どうして書く仕事がしたかったんですか」ときかれて
思ったままをこたえたら
「…それが、今のがきけただけで今日は会えてよかったです」と言われた。
(なんとこたえたかは、はずかしいからナイショです)。
がんばってほしいなあ。
***
ゼミの先輩にお会いしてきた。
お仕事お忙しいところありがとうございました。
わたし、そのひとの文章が好きでさ。
自分の書くものがいちばん好きだったあの頃のわたしにとって
衝撃的な出会いだった。
(ゼミでの作文を浜松のアパートの壁に貼っていたこともあるくらいだ)。
お茶に付き合っていただいた。
気の利いたお店も思いつかず
(そういや大学のまわりってあんまりないなお茶するとこ)
歩き歩いてガストへ。
帰りはわたしの終電があやうくなって
タクシーひろうために聖隷病院までいっしょに歩かせてしまった。
「文章がすたれてきている」
と、先輩は言っていたけれど、
そんなふうにはぜんぜん思っていなかった。
ずっとオイツケナイトコロにいてほしい。
後輩のワガママです。どうぞこれからも。
***
「浜松に行ったことでこころのもやが晴れました」
などということはまったくない。
むしろ、よりいっそう、もやもやした気がする。
どこにも答えはない。
誰も用意してくれていない。
今はちょっと悩まねばならぬときなのかもしれない。
行ってよかった。
朝も昼も夜も、そして朝も。この風景とともにあった時間は大切だった。
今さらこういうこと言うのは、なんかカッコわるくてほんとはいやなんだけど。
***
のぼりの終電がはやい。21時ちょうど。
帰りの新幹線の中ではうなぎボーン(うなぎの骨)をかじりながら
缶ビールと、缶の緑茶割り(静岡だけに)をのんだ。
以前、巻末の町田康エッセイが読みたくて買った
『中原中也詩集』をもう一度めくった。しずかな気持ちになった。
これは何。かなしさかさみしさか気づきか。
「春日狂想」の中の
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。
のあたりを読んでいると、
なみだも出ず、ただしずかな気持ちが訪れた。
でも、
わたしには生活がある。
ビールの残りを飲み干して、小田原駅で降りた。
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